五時間目が終わって、放課後。 普段なら雑談に興じている人達がかなり居るこの2−Aですが、今日に限っては残っている人間は殆ど皆無でした。 皆さん、授業終了をするやいなやネギ先生の捜索に向かったからです。
今この教室に残ってマイペースで帰宅の準備を進めているのは、千鶴さんやザジさん、真名さんに楓さん。それと五月さんと茶々丸さんと千雨さん。 ちょっとよく分からない人や、温厚そうな人はやはりあの程度の挑発には乗らなかったようです。 エヴァンジェリンさんがいないのが気になりますが、彼女はいつも気ままにサボるので既に帰った後なんでしょう。 そんな中、私も帰宅への準備を進めていきます。
「ねぇ夕映、ちょっといいかな」
後ろからかけられた声に振り向きます。
「ああ、のどかですか。何か用なのですか?」 「うん。あのね、今日図書館の整理をするんだけど、ちょっと手伝ってくれないかな? 2−Gの子がね、なんか風邪みたいで」 「人手不足ということですか」
そこで、頭の中でこれからの予定を考えてみます。 寮に帰って、本を読んで、本を整理して、本を考察して…… 止めましょう。なんだか少しだけ悲しくなってきました。
「構わないです」 「ありがと、夕映」 「いえ。友達ですから」
私は教科書を詰め込んだ鞄を背負って、図書館へ向かって教室を出ました。
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麻帆良学園は、その蔵書数も並の学校ではありません。 なにせ『図書館島』なる本のみに埋め尽くされた人工島があるくらいですから、はっきり言って国会図書館なんか目じゃありません。 洋書、和書、歴史書、古文書、教典、巻物、雑誌、新聞。 世界中のありとあらゆる書物が、この麻帆良学園には保管されています。
しかし、そんな膨大な図書は普通に利用する上ではかえって不便になってしまいます。 ですから、この中等部図書館には比較的利用頻度の高い図書を選択して並べてあるのです。
しかしそれでも蔵書数はゆうに十万を超え、それを管理する図書委員は案外忙しい委員だったりします。 まぁ、適当にやれば何処までも適当にやれるのですが、基本的に本が好きな人間の集まりなので殆ど妥協はありません。 のどかも、誰に褒められるわけでもないのにけなげに頑張る生徒の1人です。
「え〜と、これはこっち……これはホの段だから……っと」
本を出しては入れ、入れては出し。 未整理の本全体に比べれば微々たる数ではありますが、それでも本は少しずつ整理されていきます。 かく言う私も、手に持った哲学の本を本棚に収めています。 哲学書に関しては多少自信があるので、作者別の整理やジャンル別はお手の物です。
「……えーっと、これは、こ、こ」
しかし私が行うには、哲学書の整理には大きな問題があるのです。
哲学書というのは、総じて内容が難解です。 まして1人の哲学者の考えを一つの本にまとめようとすると、かなりのボリュームになります。
「うっく……お、も、い……」
そう。重いのです。 どれもこれも重いのです。 いえ、両手で抱えて持つのならば、数冊重ねても何とか余裕があるでしょう。 しかし、麻帆良学園の本棚は丈が高く、はしごを使わなければとてもではありませんが上に届かず。 必然的に足場の移動が困難になるわけで、出来るだけ整理を早めるためには足場を動かさず、手を四方八方に伸ばして本棚に納めなければなりません。 当然持つのは片手。
考えても見てください。広辞苑クラスか国語辞書クラスの本を片手に持って本棚に収める作業を。 はっきり言ってこれ、相当な重労働です。
「っく……はぁ、はぁ、はぁ……」
よって、本の整理でこんなに息が上がってしまうのです。
「ひ、一段落つきましたし、少し休みましょうか……」
わざわざ身体を酷使してまで鍛えてはいませんが、私も図書館探検部の一員、それなりの体力は身につけているつもりです。 しかし、どうにも体のサイズが問題です。
「これからは少し牛乳でも飲みましょうか」
希望にすがって呟いてみますが、効果はあまり期待しない方が良さそうですね。 はしごを下りて、読書用の椅子に腰掛けます。 とたん、ふくらはぎまで熱を持ってきました。 どうやら腕だけではなくて全身運動になるようですね。最近二の腕とか気にしている亜子さんとか、お腹周り気にしてるハルナ辺りに進めてみましょうか。
「全く、だらしないですね。本の整理程度で肩で息ですか」 「……っ!?」
唐突に、あの見下すような声が、私の正面から聞こえてきました。 思わずがたんと椅子を揺らして飛び退きます。
奴です。この喧嘩を売っているとしか思えない第一声で顔を確認しないでも嫌と言うほど誰だか分かりますが、目をそらすなど私の性格ではないです。 きっ、と効果音がつかんばかりに睨み付けます。
「先生が思っているよりも重労働なのです。やってみるですか?」 「はっ、まさか。整理なんて僕の様な天才のする仕事じゃありません」
こ、この不敵な笑みはもう人の堪忍袋破壊の最終兵器ですね。 耐性がない人間ならば一発でやられてしまうでしょう。 しかし、こういう怒らせることが目的の人間にとっては、怒らず理屈で論破するのが一番の攻撃。
「いえ、貴方が自分で思っているより案外お似合だと思いますよ? こういう雑用は」
ぴくりと、僅かに彼の眉が動きました。 ですがそこは流石にあのネギ先生、不敵な笑みは揺るぎません。
「まぁ、天才というのは何をやっても天才ですからね。サマになってしまうのは仕方がありませんよ。少なくとも貴方よりね」 「そうですか、だったらその天才の仕事を見せていただけますか? 口だけでべらべら言ってないで」 「人に頼む態度ではないですね、綾瀬夕映さん」 「いえ、年上と接するときの態度をしらないような子供にへつらう必要はないです」
表面上は私も彼もにこやかですが、テーブルを挟んで交わされる言葉の剣は猛烈な撃ち合いを演じています。 流石の彼も不敵な笑みを維持することが出来なくなったのが、今は子供のような微笑みです。 それでもその不純物が一切含まれていない純粋な笑みを浮かべている辺りは流石と言ったところでしょうか。 私と言えば、確認は出来ないですが恐らくかなり頬が引きつっているでしょう。 ラジエーターはフル稼働ですが、怒りを完全に放出することは出来ていません。 ここは、暴言での一撃にかけます。
「いい加減その気に食わない笑みを何とかしてください、ボーヤ」 「ボーヤ、ですか。全く、貴方の部屋には鏡がついているのですか? 恐らく無いのでしょうね、そうでなければ自分の体型を棚に上げた上に厳重封印を施したような、そんな発言はできないでしょうから」
見事に反撃されました。失策です。 外見から言えば、私も彼と同レベルという事実を忘れていました。 それに加えて、
「日本のアニメの『見かけは子供頭脳は大人』を地で行っていますからね、貴方は。まぁ、頭脳の方は大人になりすぎて硬化現象とニューロンの死滅がダブルで発動、リアルタイムで進行中のようですが」 「……っぐ!!」
たたみ掛けるような暴言。 暴言という分野では彼のレベルは私の及ぶところではありませんでした。 アニメすら利用してのけなし方は、私と会う前に文章でも書いていたのではないかと言うほど洗練されています。
「け、喧嘩を売りに来たならば出ていってください。ここは本を読むところです」 「本なら読んでいますよ?」
待っていましたと言わんばかりに、彼は開かれた本の背表紙を私に見せました。 タイトルは……読めません。 少なくとも英語ではなく、アルファベットらしき物もありますが見慣れない文字もあります。
「ギリシャの本ですよ」 「そ、それくらい見れば分かります!!」 「そうですか? 案外語学に堪能なんですね」
く、屈辱です。 あのセリフは私があの本を読めないと分かっていて言っています。 確実です。ええ、確実です。
しかもテーブルが影になってい見えませんでしたが、どうやら彼は本を読みながら私と口論していたようです。 そういえば常に目線が下に向いていた気がします。
「僕は本を読んでいたんですよ。喋っていただけなのは貴方です」 「……」 「で、どうするんですか? 僕に言ったように出ていきますか? まぁ、何もするつもりでないのならそれが一番で」 「……の、のどか! こっちは終わりましたから手伝うです!!」
彼の言葉を最後まで聞かず、私は逃げるようにして整理を続けているのどかの方に向かいました。 凄まじく腹が立ちます。ネギ先生にではなく、逃げるようにしている無様な自分に。
「ど、どうしたの夕映。顔真っ赤だよ?」 「何でもないです。とにかく手伝いますから、整理していない場所は何処ですか?」 「うん、そこの歴史書のところ。……何かあったの?」 「何でもないと言ってるでしょう」 「なら良いけど……」
どうやらのどかには、先程の会話は聞こえていなかったようです。 良かった、と言えるでしょう。
心中穏やかなりません。 それでも、のどかと背中を向けながら本の整理を進めていきます。 本に八つ当たりなど言語道断ですが、しかし棚に入れるその手に無駄に力がこもっているのも事実です。 ああまったく、こんなにイライラするのもすべてあのクソガキのせいです。 このままでは胃潰瘍どころが内蔵全てが溶けかねません。 大体彼の言っているのは一々が屁理屈であって、理路整然とまくし立ててればすぐに何も言い返すことを無くせるでしょう。 全てはアイツの喋っているときの異様な自信と、絶妙な話術、この二つのせいです。
「全く、あの頭をもう少しまともなところに……使っているんでしたね」
確かオックスフォード卒、とか言っていたです。
「……っ」
ああ、会話もしていないのにむかついてきました。 存在自体が相手を自動的にむかつかせるのでしょうか? 人類平和には有ってはならない人材です。
「随分しかめっ面で本の整理するんですね。まぁ、普段能面顔ですから、少しぐらい表情持った方がいいかもしれないですけど」 「え……せ、先生?」
追撃のつもりでしょうか、横から口出ししてきた先生に、のどかが反応します。 どうやら図書館にいると言うことが大分意外だったようです。 私も全く、同感です。
「……あなたさえ居なければ万事解決です」 「確実かつ永久に解決しませんね」 「出来れば今すぐ解決したいですけど」 「じゃあその少ない知恵を絞って良い案を出してください」 「っ!」
思わず拳を構えます。 冷静に考えればここで殴りかかっても、あの教室に入るときのトラップを片端から回避(そして破壊)した彼には無意味でしょう。 しかし、私の頭は恥ずかしいことにそんなことも忘れるほど怒っていたのでした。
「しまった! ……あ、っと、うっく、あっととと!」
バランスを崩した私は梯子を前後左右に揺らしながら何とか静止を取り戻そうと奮戦しますが、すぐにバランスを取りきれなくなった私は最悪なことにのどかに向かって倒れていきました。
「え、夕映、ちょっと……!」
そして、のどかと私はある形で安定しました。 そう、”人”の字です。
「の、のどか、すいません……」 「う、動けないよ〜」
そして、困惑している私達に傍観者は明らかな蔑みの視線で見上げて、
「はっ、馬鹿ですか、あなたは。っていうか、馬鹿ですね。ああ、こればかりはあなたは日本一……いや、世界一かも知れませんよ」 「う、うるさいです! 馬鹿にしてないで助けてください!!」
この”人”の字、凄まじく絶妙なバランスの上に成り立っているです。 止まっている分には安定していますが、少しでも動いて重心が偏ったら二人揃って二mまで落ちてしまいます。 骨は大丈夫でしょうが、痛いことは確実です。
「へぇ、人に物を頼むとき、日本人はそうやって高圧的な態度をとるんだぁ。勉強になるなぁ」 「っく……!」
一m以上見上げられているのに、見下されているように錯覚してしまうのは一体どういう事でしょうか?
私だけならば、二m程度の落下の痛みは甘受しましょう。 あの指向性内蔵破壊(主に胃)兵器に助けを求めるよりはマシです。 しかし、今は巻き込んでしまったのどかが居ます。 私は高いところから落ちたときの受け身程度は取れますが、しかしのどかは足を捻ってしまうかも知れません。
「……ぃします」 「え?」 「お願いします、助けてください!!!」
ああ、なんでこんな某真ん中で愛を叫んでる人並のセリフを叫ばなければいけないのでしょうか? 恥ずかしさと悔しさはマックスです。マジで神経断裂寸前です。 しかし、私のそんな苦渋の決断にも、全く顔色を変えない傍観者。
「ま、対価によっては考えないこともありません」 「た、対価!!?」 「ええ」
な、なんてアダルティックな響きの要求でしょうか。 まさか、この体なんて言うんじゃないでしょうねこのマセガキは。 私は別に可愛いわけでは有りませんし身体の発育はまさに致命的だし、まさかあの歳にしてロリコン!? 自分も十歳なのに!? いやしかし天才と奇人は紙一重と言いますし彼もそのタチかもしれなくもない……
「お二人は仲が良さそうですけど、同室ですか?」 「え、私達ですか?」 「ええそうです、宮崎のどかさん」
唐突な問いに、少々戸惑いながらも答えます。
「ええそうです。ちなみにハルナも同室です」 「ハルナ……ああ、彼女ですか」
ふむ、と顎に手を当てながら考え込むネギ先生。 しかしのどかといいハルナといい、名前はもう全員分覚えたのでしょうか? 流石、認めたくはありませんが大した記憶力です。
「それがどうかしたのですか?」 「いえ、実は学園長に住居はどうするのかと聞いたら、自力で確保してくれと言ったので、現在僕は居住スペースを探して居るんですよ。 で、丁度部屋主が二人も居ることですし、貴方達の部屋を少し借りようかと思ったんですよ」 「へぇ……」
部屋を借りる、ですか。
「「えええええ!!!?」」 「っ、あんまり大きな声を出さないでください」
いや、それは無理という物です。 いきなり異性に「部屋に泊めろ」と言われて、平然としていられる方がおかしいです。 と、梯子がぐらぐらと揺れ始めます。 さっきの叫び声と体の硬直がまずかったのでしょう、バランスが崩れてしまいました。
「で。返答は?」 「へ、返答と言ってもハルナにも聞かなければいけないです!」 「今はあなたに聞いて居るんです、綾瀬夕映さん」
と、妙にキリッとした顔で告げるネギ先生。 今までの薄ら笑いと比べると結構かっこいいんですけど、数秒後の安全も危うい今の状況ではそんなこと気にしていられません。
「良いんですか?」 「あ、余りに急すぎます! 少し時間を……」 「別に構いませんが、今時間が無いのはあなたの方では?」
全く持って正論です。 すでにのどかは修正不可能な幅で揺れています。 私も、限界は近いでしょう。
「では、のどかさんから聞きましょう。どうですか?」 「え、あの、でも!」 「どうなんですか」 「あ、あの……あっ!!」
のどかは返答にためらっている間に、遂に倒れ始めました。 初めはゆっくり、しかしどんどんと加速して梯子が傾いていきます。
とっさに、私の口は動いていました。
「分かりました!!」
叫ぶと、ネギ先生はニッと笑うとのどかに向かって跳躍しました。 二mはあったであろうのどかとネギ先生の高低差は一瞬で無くなり、のどかはネギ先生の両手に収まりました。 いわゆるお姫様だっこ、という奴です。
そしてのどかを地面におろすと、ネギ先生は今度はこちらに向かって飛んできました。 腰と背中に腕が回る感覚と同時に、浮遊感が私を包みました。 小柄とはいえ人一人を抱えているとは思えない身軽さで、すたっと着地。
顔が、非常に近くに来ました。
「なっ!」
不覚にも、顔が熱くなります。 まったく、顔の造形はどう考えても最高レベルです。 至近距離での凝視は危険ですね。
ネギ先生は私を床におろして、のどかに向かってニコリと笑いました。 表情を変えずに、私の方を向きます。
「じゃ、部屋まで案内お願いします」 「まさかとは思いますが、さっき私を挑発したのは、ここまで予想していての行動ですか?」 「さて、なんのことですか?」 「……のどか、今日はもう終わりです。本を片付けて部屋に帰りましょう」 「う、うん」
まったく、つくづくむかつきます。
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