「高畑先生、高畑先生、高畑先生、高畑先生、高畑先生(以下略)……ワン!!!」


と、麻帆良学園中等部へ登校する生徒の中で、いきなり吠えた少女がいた。
オレンジ色の髪を鈴の付いたゴムでツインテールにしている彼女、その名を神楽坂アスナと言う。

彼女は別に犬の真似をしているわけでもなければ、高畑と言う名の彼女のクラスの担任を吠えて唸るほど恨んでいるわけでもない。
むしろその逆だ。

経緯としては、


「でもアスナ。今日は運命の出会いありって占いに書いてあるで?」
「え、マジ!?」
「ほら、ココや、ココんとこ」
「えっと、何々……好きな人の名前を10回言って『ワン』と鳴くと効果あり?」


と彼女の親友である近衛このかの言葉による。

つまり彼女は高畑先生を好いているわけであり、その明らかに信憑性の薄いおまじないを実行したわけである。
しかし、彼女のそう言った意志を汲み取ることは並の人間には不可能だ。
結果、彼女の周りからは登校中の多くの生徒が遠ざかることとなった。


「なはは。アスナ、高畑先生のためやったら、ほんと何でもするなぁ。周りの人みんなびっくりしちゃったみたいや」
「あ、あんたが持ってきた本に書いてあったんでしょうが!」

がーっとまくし立てるアスナ。その迫力はなかなかだが、普段から相手になっているこのかからすれば何でもない。
このかは笑顔のまま、冷静に返した。

「別にやれなんて言ってないやん」
「う……そ、それはそうだけどさ……ん?」

視線を泳がせたアスナは、自分を中心としてぽっかりと空いた人の流れの穴に残った少年と目があった。
真横からアスナを見つめる琥珀色のその目は、何処か温度が低い。

「な、何見てんのよ」

もともと子供が好きではないアスナだ。
まるで軽蔑しているかのような視線を浴びせられて、ついつい挑戦的な言葉をかけてしまう。
しかし、少年は身じろぎせず、それどころが余計にその視線の温度を下げた。

「……」

背丈から見て、小学生の高学年に属すか属さないかという程度の年齢だろう。
だと言うのに、背中には妙に長い包帯に巻かれた棒を差し、まるで修学旅行並みに荷物を詰め込んだ鞄を背負っている。
その重さは相当だろうに、少年はがっちゃがっちゃと音をたて、その茶髪の前髪を揺らしながらアスナの超中学生級の疾走に遅れていない。


「な、なによ」


下手な返答よりも、沈黙は圧力をかける。
たじろいだアスナの声が響き、少年は僅かな沈黙の後、


「犬ころ。そんな人間の格好してないでさっさと犬小屋に戻ったら?」


とか、ビキニ環礁も真っ青の破壊力を持った暴言を、まるで挨拶のようにのたまった。

時が止まる。
アスナがフリーズした思考を再起動させるまでの4秒間、沈黙は続いた。


「な、なんだとこんガキャー!!」


アスナは激昂し、凄まじい俊敏さで進行方向を修正、少年の着ている茶色のコート、その襟首に掴みかかる。
が、少年はスピードを瞬間的に0まで落として、アスナの強腕を寸前で回避した。

「え?」

勢いが空振ったアスナは、そのままバランスを崩して前に倒れかかる。

「うわっとっと!!」

なんとか体勢を持ち直したアスナに、少年は絶妙のタイミングで足払いをかけた。


「っきゃぁ!」


思わず手を突き出し、顔面ダイブをなんとか阻止する。
さして加速がついていた訳ではないので、アスナは怪我は負わなかった。
だが、少年の狙いは別にあった。

今のアスナは四つんばいだ。
それも位置的に、尻を少年に突き出すような屈辱的な体勢の。
アスナを見下しながら、少年は言った。


「ほら、犬なら犬らしく四本足を使わなきゃ。二本じゃバランス取れないでしょ?」


ブチンと、アスナの頭で何かが切れた。
先にも増した俊敏さを持って、アスナの腕が少年の襟首に唸る。
今度は少年は避けなかった。
アスナの凄まじい腕力で身体を持ち上げられながら、口の端を釣り上げた笑みを作っている。


「ふざけてんじゃ無いわよ! あんたが転ばせたんでしょ!!」
「ふぅ、いきなり飛びかかってくるなんて、しつけがなっていない犬ですね。飼い主の顔を見てみたです。……ああ、お前首輪付けてないようですね。野良犬かな?」
「しつけがなってないのはアンタの方でしょ!?」
「なんだ、人間の言葉がしゃべれるの。お利口だな〜」


凄まじい剣幕で怒鳴りつけるアスナに全く臆さず、それどころが少年は腕を上げてアスナの頭を撫でた。
アスナはそれを止めさせるために、掴んでいた襟首を離す。
それが計算ずくだったのか、少年はすたりと着地した。


「ぶん殴る!!」
「あ、アスナ落ち着いて! 殴ったらあかんて、相手は子供や!!」


横で応酬を見ていたこのかが、ローラースケートを駆ってアスナと少年の間に割り込んだ。
相手は子供、という言葉はアスナにある程度の妥協を生み、アスナの動きが止まる。
しかし、少年は今度はこのかをその目標として再び毒舌を発揮し始めた。


「僕を子供扱いしないで貰えます? 大体……」


少年は流れるような動作で背中の棒---見ると只の棒ではなく、片方の先が妙な形をしている---を手に取ると、背後からこのかの右足のローラースケートを突いた。

「へ? ……あわわわわ!」

このかはバランスを崩し、180°反転して正面から少年に倒れかかった。
タイミングを重ねて、少年はこのかに向かって両手を突き出す。

ムニュゥ……

結果、少年の両手は見事にこのかの発展途上の胸を掴んだ。
少年はそのまま顔の筋肉を薄ら笑いで固めたままぴくり供動かさず、このかの胸を揉み始めた。
ネギとこのかはそのまま”人”の字を形作ったまま停止して、アスナは口をぽかんと開けて呆然と立ちつくす。
このかに至ってはほとんど石と化していた。

登校途中の生徒は、少年とのやりとりの間に全員いなくなった。
疾走途中にあってはこの衝撃的な映像も目に入らなかったのだろう。
もっとも目に入ったとして、このかの中で刻々と溜まっていく怒気を察知すれば早々に退散しようとするだろうが。

そうして10秒が過ぎた。
少年は動かし続けていた両手を止めると、


「体型からしてあなたもガキでしょう」


鼻で笑った。


「す、好き勝手やっといて言うことはそれなんかいこのガキー!!!」
「お、落ち着きなよこのか!」


自身のキャラも忘れ怒れる鬼となったこのかを、アスナが後ろから羽交い締めにして押さえつける。
先程とはまるで立場が逆転だ。
アスナは長い付き合いの中でこれほど怒ったこのかを見たことはなかった。

しかし少年はそんなこのかの怒気にまともに身体をさらしつつ、薄ら笑いの表情は保持している。


「好き勝手って、僕が何をしたんですか?」
「な、何って……ウチの胸揉んだやないか!!」
「揉むほどボリュームなかったですよ。自信過剰は感心しないですね」
「……殺ス!!!」
「きゃー! このか落ち着いて、殺したらだめだってば!!」


既にこのかの怒りゲージはマックスもマックス、120%充填完了である。
いま解き放たれればこの猛獣は、怒りに身を任せて目の前の少年に鉄槌を下すことはまず間違いない。
だというのに少年は、その猛獣をつなぎ止めている鎖を再び標的とした。


「あはははは、犬が鎖になってるなんて笑えますよ」
「こ、このガキいい加減に……」
「あ、高畑先生が後ろに」
「え!?」


この言葉は再び切れかけたアスナへの有効打だった。
解こうとしたこのかの拘束をそのままにして、ネギが指さした方向を向いてしまったのだ。
もともと基礎身体能力が高いアスナである。
意識が全て恋する相手に向いてしまったため、逆に身体は硬直し、このかは拘束されたままでじたばたするだけとなった。

しかしアスナの目に人影が映ることは無かった。
きょろきょろと見回し、それでも誰もいない。
先生どころが登校途中の生徒すらいない。

「っしまった……!!」

気付いて、振り向く。
薄ら笑いを浮かべた少年も、既にいなくなっていた。
悔しがることに意識を傾けて、腕はまだこのかを羽交い締めしたままだ。

「あんのクソガキ……!!」
「いいからアスナ、さっさと離しぃな!」

キーンコーンカーンコーン。
遅刻確定のチャイムが鳴る。

 
 
 
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